古い易書を見ていると、
易を学ぶことのムツカシサが、
こんなふうに記してありました。
斯様に尊ばるべき経典(けいてん)でありながら、
昔から漢学者の中でも易を究めた人は割合に少ない様である。
況んや現時(昭和初期)の人には猶更のことで、
相当の学者といはるゝ人でも、「易は別物」として、
之を知らないことを一向平気で居られる様である。
そは何故であるか。
易は他の書物と違つて色々異つた卦画に
それぞれ異なつた命名がしてあり、之を暗じて、
卦形を見て直ちに其名を想起し、
且つ其第何爻目が何といふ辞かといふことを
暗熟するだけで、大抵辟易して了(しま)ふ。
加ふるに各卦爻辞の間に何等の連絡系統なく、
唯だ雑然たる辞句の集団であるかに見えるので、
一層昏迷を来し、自然之を遠忌(えんき)する様になるのも
無理はないことである。
確かに易の文辞は、
断片的で、古めかしくて、不可解です。
古いうらないの言葉である、
繇辞(ちゅうじ)が混じっていたりします。
しかし、
辛抱強く学んでいけば、
言葉の繋がりが見えて来ますし、
聖人の深い配慮、深遠な思想などが、
ぼんやり見えてくるのです。
そう思って、
読み続けることが大切です。
伝達の文章ではなく、
暗示、寓意、象徴的な文章なのです。