易経を読むとは、
易経そのものとその註釈を読むことが、
本筋であると思います。
これは単なる「知識」ではなく、
本質的な「理解」「深さ」ですから、
時間がかかるのです。
過去にこんなことを
書きましたので引いてみます。
× × × ×
易経を読むことにつき、
ある古人はこう申しております。
此の一句を読むと云ふと、人間の精神は森(しん)として来る。奥深いやうな感を懐(いだ)いて来る。
一体漢文の長所は何処にあるかと云ふと其の文章の如何にも句調の宜(よ)い而も雄大であると云ふ所にある。であるから之を読んで見ると云ふと其の味わひ誠に忘るべからざるものがある。
利益追求、効率至上主義の人にはわからないでしょうが、
精神を高尚にしたり、壮大にしたり、堅実にすることは、
書物や学校の本来の目的なのではないでしょうか。
小生などは、
そう思うのですが。
最近は、
こういう考え方を排除する傾向なので、
寂しい。
× × × ×
まあ、
今の政権においては、
排除されそうですが・・
古人は、
易経を読むと、
人間の精神が森(しん)として来る。
奥深いやうな感を懐(いだ)いて来る。
と云っておりますが、
小生などは辞をかけた聖人と
どこか奥深い世界でつながるような
気がいたします。
これは易経だけではないのですが、
古典といわれる書物、
それは文学でもいいのですが、
古い立派な文章を読むと、
それを書いた人の脳内、
あるいは魂とつながるような、
そんな感じがして
不思議な感覚をもちます。