易を学んでいると、
名文章に接することがあるのですが、
これなどもその一例でしょう。
日暮れて道遠し・といふ句がありますが、私の講義も、些(いささ)か其の憾(かん)が無いではありません。
もつとも、夜道に日は暮れない・ともいふので、気永に夜道でもするつもりになつた方が、道遠しの焦慮も起らずに、却つて思つたよりも早く明日の太陽を仰ぐことになるのかも知れません。
‥‥さういふ心の持ち方も、明夷に処する一つの道で、前回も述べたやうに、難みつゝも敢へて闇に逆らはず、徐ろに暁の回り来るのを待つわけで、それが明夷の艱貞であります。
(易学大講座)
これは講座の文字起こしですから、
名文というより正確には名講義なのですが、
それでもよい文章のごとき味わいがあります。
この味わいは、
述べられている内容の「深さ」
によるのかもしれません。
加藤大岳先生は、
佐藤春夫に師事したそうですが、
小生が易学大講座を読む限りは、
詩人という感じはあまり持ちません。
詩人よりも「哲人」というふうに、
小生は捉えております。
正道を外さない、
強力な合理的精神の持ち主であると。
それゆえ、
有名な占法家の秘伝だからといって、
無条件にそれを採用するのではなく、
伝説を排除しその有用性を再検討した上で、
易の機構に組み入れているのです。
ただ、
心の奥深いところに、
「寂寥感」のようなもの、
生きることのはかなさなどを
感じておられたようにも思うのです。
それが詩情(ポエジー)となって、
先生を「詩」に向わせたのでしょうか。
そういえば、
師の佐藤春夫には、
「田園の憂鬱」「都会の憂鬱」
などの小説があります。
そこで、
大岳氏が小説を書くとしたら、
田園・・都会・・と、
どこであっても憂鬱なのですから、
「山岳の憂鬱」などというのは、
どうでしょうか。
以上、小生の戯言です。