赤塚忠先生の文章に、
このようなのがありました。
中国思想史を学ぶ者にとっては、
『易経』は必ず通らねばならぬ難関であり、
・・
易経のことを「難関」であると、
云っています。
そうなだあと小生も思います。
小生の場合は、
易経の全ての分野を網羅して、
研究しようという大それた考えはなく、
岩波易経を読んで意味がわかり、
卦爻を分析できて辞と絡めて読める、
そして柳下「易入門」を使って、
進退を決するくらいの占が出来れば、
それでよいと思っています。
しかしそんな程度でも、
「易経を読む」ということがわかるのに、
10年くらいはかかりました。
「易経がわかった」のではなく、
「易経を読む」ということが、
どういうことかがぼんやり見えてきた、
ということです。
それくらい易経は難関であると思います。
他の高名な先生にして、
このような按配であったと、
記しています。
武内義雄先生は教授の指導のもとで程伝・朱子本義を
読んだが一年経って振り返ってみてただ茫然とする
のみであった。
公田連太郎翁はどの註釈を読んでもまるでぴんと来ず、
程伝を読んではじめて易が見えはじめた。
安岡正篤氏は直接易経を読んでも何のことだか
わけもわからないし、解説註釈も旧式で、
どうも五里霧中の感じであり、それで随分苦しんだ
とまで書いているのです。
どの先生も一流の専門家であることは明白なのに、
それでも易経となるとすんなり読めない。
論語を読んでいるとか、
他の漢籍、古代史に精通している、
ましてや漢文法云々という、
話ではないのです。
× × × ×
しかし、
あまり上を見ていてもキリがありませんから、
岩波易経を読んで易辞を楽しめる、卦爻を分析できる、
それくらいを目指して易経を読めば、
普通の人はそれでいいのではないでしょうか。
易占が主たる目的の人ならば、
岩波易経を読んで経文の意味がわかれば、
それで十分だと思います。
どんな説を信奉していようと、
自分で一貫していれば問題はないはずです。