「无咎」 について、
易経では 无咎者善補過也 と解説しています。
咎无シトハ、善ク過チヲ補ウナリ、と。
けれども、これは、
処世上、道徳上の教えとして
辞を繋けているととらえるべきです。
つまり、
こういう運勢だから、
「君子かくあるべし」 と云っているのです。
ですから、
占においては、
そうした君子修養論以前の、
「今はこのような運勢である」 をもって、
占っていく必要があるのです。
なぜなら、
我々、小人・凡人は、
時中、すなわち、
その時々において最も宜しき行動をとる、
そんなことは不可能だからです。
我々は愚かな生き物で、
今だけ。金だけ。自分だけ。
自分の利益のために他にへつらい、*1
苦労なんかしたくない、
ましてや人の犠牲になんかなるもんか・・
そう思っているからです。
易の辞は、
本来もっと高いレベルの、
君子のための言葉なわけです。
悪い運勢、人生のどん底にあっても、
「善ク過チヲ補ウ」 という振舞いができるような、
君子たるべき人が読むものなのです。
君子は過ちを補うから、
咎なしなのですよ。
そういう前提で辞が繋けられているのです。
なので、
三変筮で占って 「无咎」 に遇ったなら、
我々凡人は 「悪くはありません」 と
単純におみくじ易をしてはだめなわけで・・・
ではどう占考するかは、
ご自身で考えてみてください。
これは爻辞占をするに当たって、
大変重要な論点です。
これを知らずに爻辞占をしている人の、
なんと多いことか!
(本にも明確には書いてないし、
誰も教えてくれないからネ)